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伊勢佐木町

先週の「馬車道」通りとは吉田川を挟んだ反対側、つまり関外地区に位置しているのが「伊勢佐木町」通りです。
最近でこそ、人の流れが横浜駅みなとみらい21地区周辺にも行ってしまっていますが、明治から昭和40年代にかけては、横浜随一の繁華街でした。
それは「銀座か、浅草か、伊勢佐木町か」言われるほどの人気でした。
とはいえ、もちろん今でも横浜を代表する繁華街であることに変わりありません!!


伊勢佐木町の町名の由来は、この町の開発者である伊勢、佐々木、佐川の三氏の名から取って命名されました。
明治元年の誕生以来、戦前の伊勢佐木町は多くの商店や百貨店、劇場・映画館が立ち並ぶ、日本でも有数の繁華街でした。しかし、戦時色が強まると映画などの娯楽が徐々に規制されていき、さらには横浜大空襲によって伊勢佐木町周辺は殆どが焼け野原となってしまい、それまでの賑やかな伊勢佐木町は消えてしまいました。
戦後、戦災を免れた建物を中心に米軍に接収され、また焼け野原は整地され、進駐軍の兵舎や、飛行場に変化を遂げました。そして、この地域の接収は昭和30年代中頃まで続いていたため、伊勢佐木町の戦後復興は完全に立ち遅れていました。
その後、再び伊勢佐木町が全国に名前を知られるようになるのは、1968年(昭和43年)、故・青江三奈さんの「伊勢佐木町ブルース」のヒットによってでした。
また、平成となってからは、デビュー前の「ゆず」が伊勢佐木町横浜松坂屋前で路上ライブを行っていた場所としても知られています。



伊勢佐木町の歴史
1867年(明治初年) 吉田新田の中心に伊勢佐木町が誕生。
吉田町の堤防続きに僅かに20数戸の小さな店が点在。
1870年(明治3年) 日本で最初の「鉄の橋」吉田橋が架けられた。
1874年(明治7年) 町名を伊勢佐木町に決まる。
1905年(明治42年) 開港50年記念式典が行われる。
日本最初の洋画封切館オデヲン座が開館。
有隣堂が開店。
1906年(明治43年) 野澤屋が本町から進出。
1907年(明治44年) 近代鉄筋コンクリートの架橋が終わった吉田橋の開通行事が開催。
1919年(大正12年) 関東大震災
1928年(昭和3年) 町名変更があり、現在の伊勢佐木町一丁目〜七丁目となる。
1945年(昭和20年) 横浜大空襲。
終戦と同時に松屋、野沢屋、不二屋などが進駐軍に接収される。
1951年(昭和26年) 進駐軍による接収が徐々に解除される。
1963年(昭和38年) 統一新アーケードを建設。
1978年(昭和53年) イセザキ・モール(1・2丁目)完成。


〜公式ホームページより〜




横浜 伊勢佐木丁商店街 1丁目〜2丁目 公式ホームページ
http://www.isezaki.jp/

横浜 伊勢佐木丁商店街 3丁目〜7丁目 公式ホームページ
http://www.isezakicho.or.jp/