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横浜外国人墓地


SPOT情報として墓地を紹介するのは、いささか不謹慎だと思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、今回は偉大なる先人たちへの敬意をもって紹介したいと思います。
横浜開港後、多くの外国人らが住んでいた山手の丘の上に位置する横浜外国人墓地には、横浜の歴史のみならず日本の近代化に多大な貢献をしてきた多くの外人が今も眠っています。
古くはペリー提督が来日の際に船内で亡くなった方から日本の鉄道の礎を築いた方まで有名無名を問わず眠っているのです。


かつて、現在の横浜外国人墓地よりも丘の下方にあった増徳院(関東大震災で焼失、平楽に移転)という寺院の敷地内に外国人としてこの地に最初に葬られたのは、1854年(嘉永7年)、日本史の教科書でおなじみのペリー提督が2度目の来日の際に率いていた艦隊の一隻、ミシシッピー号内において墜死したロバート・ウィリアムズという24歳の二等水兵の方でした。
なぜこの地に決まったのか?それはこの水兵の埋葬地と共にアメリカ人用の墓地をペリー提督は幕府に要求する際、「海の見える地」という条件を出していました。
そして、その条件に合っていたのがこの山手の丘だったからです。


幕末、来日する外国人の増加に伴い亡くなる人も増え、1861年(文久元年)にはこの地が外国人専用の墓域として定められました。そして、この地に埋葬された方の中には、薩英戦争の原因となった1862年(文久2年)9月の生麦事件の犠牲者チャールズ・リチャードソンなど日本の歴史に大きく関わることになる方もいます。
1864年(元治元年)、当時の江戸幕府は横浜居留地覚書き書をアメリカ・イギリス・フランス・オランダの各国公使との間で締結し、墓域の拡張を認めたことで増徳院のある丘の上部にも新たに一区域が設けられ、さらに1866年(慶応2年)には横浜居留地改造及び競馬場墓地等約書が締結されたことで、ほぼ現在の墓域まで拡張されました。


その後の明治期には、初代鉄道建築師長として日本の鉄道誕生の礎を築いたエドモンド・モレルをはじめ、ワーグマンやヘールツなど様々な分野で日本の近代化に貢献した人々が埋葬されました。
こういった方々の埋葬記録も関東大震災で多くが焼失してしまい、現在までの記録が4800柱を越すものの、残っている墓石数は約2500だけとなっています。
しかし、冒頭で記したように日本の歴史上、多大な貢献をされた方々が、今も横浜を見守ってくれていることには変わりありません。



※墓地内は通常非公開です。
ただし、3月から12月まで毎週土・日・祭日(雨天を除く)の
午後12時00分〜午後4時00分に外国人墓地募金公開を行っています。
外国人墓地の維持管理のための募金(200〜300円程度)をすることで入苑できます。


住所
横浜市中区山手町96番地


交通
みなとみらい線元町・中華街駅」より徒歩8分
JR「石川町駅」より徒歩20分
JR・市営地下鉄「桜木町駅」より神奈川中央交通バス「元町公園前」下車徒歩1分



財団法人 横浜外国人墓地
http://www.yfgc-japan.com/index.html