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伊勢佐木町と横浜松坂屋

横浜松坂屋が10月に閉店することが決まった。

横浜松坂屋横浜市中区伊勢佐木町、TEL 045-261-2121)の持ち株会社J・フロントリテイリングは6月24日に開催した取締役会で、144年の歴史を持つ同百貨店を10月26日に閉店することを決定した。

 閉店の理由は、立地や競合店舗など周辺商環境の変化による業績の低迷に加え、本館建物の老朽化が進んでいること。閉店後は本館建物を解体・撤去し、低層階に商業・サービス機能を備えたマンションがとの複合施設を建設する予定。


伊勢佐木町の町名は1874年に制定されたそうです。

明治の伊勢佐木町 1874年(明治7年)には伊勢佐木町の町名が制定されました。
町の名前は色々の説がありましたが、中村次郎衛・佐川儀衛門・佐々木新五郎の三名のからとられたということに落ち着いたようです。
中村の屋号の伊勢屋から「伊勢」、佐川の「佐」、佐々木の「木」を採って伊勢佐木町としたという話のようです。

ハマ経plusで伊勢佐木町の歴史を簡単にまとめています。

戦後、戦災を免れた建物を中心に米軍に接収され、また焼け野原は整地され、進駐軍の兵舎や、飛行場に変化を遂げました。そして、この地域の接収は昭和30年代中頃まで続いていたため、伊勢佐木町の戦後復興は完全に立ち遅れていました。

その後、再び伊勢佐木町が全国に名前を知られるようになるのは、1968年(昭和43年)、故・青江三奈さんの「伊勢佐木町ブルース」のヒットによってでした。

また、平成となってからは、デビュー前の「ゆず」が伊勢佐木町横浜松坂屋前で路上ライブを行っていた場所としても知られています。


1910年代の伊勢佐木町の様子を昔の絵はがきで紹介したWEBがあります。

大勢の歩行者で賑わう暑い夏の午後の伊勢佐木町。日傘を持っている人が多い。これは夏の射すような日光を避けるためだろう。この絵葉書に写っている大きな白い建物は、落語や奇術で有名な寄席の新富亭で、1922年(大正11年)に大手演劇会社の東京吉本が買収した。1
横浜の町が作られたときは、外国人が居留する関内と地元の人々の住む関外の2つに分かれていた。その後何年にも亘って、この2つの地域を結ぶ橋が多く作られた。1911年(明治44年)にできた黄金橋は真っ直ぐ伊勢佐木町に続いており、何年もの間横浜で最も通行量の多い橋だった。2
伊勢佐木町は佐木町という名で親しまれ、1874年(明治7年)に埋立地に作られた。関内と横浜の風俗街に隣接しており、この町自体が多くの人々の行先だった。1877年には最初の芝居小屋ができている。1899年(明治32年)の大火事で関外の大部分が焼け落ちた後、再興されて以前にも増して人気のある町になった。

こちらは1920年代の伊勢佐木町の様子。

多彩な看板の並ぶ伊勢佐木町を人力車が競い合って走っている。右側には濱屋商店の一部が写っているが、この店は横浜でこのような絵葉書を売っていた何軒かの店の一つ。濱屋から一軒置いて隣にあるのは、足袋の卸問屋の岡田屋。左側には書店の有隣堂があった。この書店は1909年創業で、現在では大手の書店チェーンで日本有数の出版社でもある。有隣堂の本店は今でも伊勢佐木町にある。