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ハマの一時代を築いたスーパーカートリオ


ネタが尽きると野球ネタとなってしまい申し訳ないが、昨日一昨日のニュースを聞いて黙ってはいられなかった。
かつて横浜ベイスターズ横浜大洋ホエールズであった頃、「スーパーカートリオ」と呼ばれる3人の選手がいた。
高木豊屋鋪要加藤博一。もう20年以上前になるだろうか、筆者の子供の頃、この3人はとてもまぶしかった。
当時の大洋は長打力に欠け、加えて弱体投手陣で万年Bクラスの球団であった(今も変わらないか)が、
スーパーカートリオ」に代表されるように、機動力には大変長けていた。
この「スーパーカートリオ」の絶頂期は1985年である。高木42盗塁、屋鋪58盗塁、加藤48盗塁と、この3人だけで148盗塁。
昨年のベイスターズのチーム盗塁数がわずか42盗塁だったことを考えると、大変な数字である。
1チームから40盗塁以上の選手が3人出たというのは、70年以上のプロ野球の歴史の中で唯一の記録である。
加えてこのトリオは、俊足選手の醍醐味である三塁打もこの年それぞれリーグ最多の5本づつ打っており、
三塁打王」も決めているのがすごい。


生え抜きでレギュラーを長く務め、割とエリート路線であった高木、屋鋪とは対照的に、加藤は大変な苦労をしている。
1970年に西鉄ライオンズに入団も、プロ入り初ヒットまで8年もの時間を要した。その頃は薄給であったため、
シーズンオフにはバーテンダーや靴屋の棚卸しなどのアルバイトで生計を立てていたそうだ。1年目から1000万円も貰える
現代のプロ野球選手から見れば信じられない事である。その後阪神タイガースへ移籍後、1983年に大洋へ移籍。
ひょうきんなキャラで人気を博し、シーズンオフにはバラエティ番組に引っ張りだこであった裏で、壮絶な努力をしていた事は
周辺の人物が語っている。1990年に引退するが、選手生活晩年は代走のいらない代打の切り札として活躍した。

「ヒロカズ〜〜ッ、ヒロカズ〜〜ッ、ヒロカズ〜〜ッ」

屈伸運動をしつつ、この「ヒロカズコール」を3回しっかり聞いてから打席に入る。
そしてヘタウマの「蒲田行進曲」のトランペットが流れる一連の動作は1980年代後半のハマスタ名物であった。
そして2008年1月21日。加藤博一、56歳。ガキの頃憧れたプロ野球選手が亡くなるのはとても寂しい。

記事:田中 健介