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紅葉がピークな昭和遺産〜こどもの国〜


 すっかり冬のような寒い日々が続いているが、横浜市北部青葉区奈良町にある「こどもの国」は紅葉が見頃である。紅葉を見つつ、園内にある雪印乳業の牧場の絞りたての牛乳やソフトクリームをいただくのは実に贅沢なひと時である。

 多摩丘陵の雑木林をそのまま生かした児童福祉法に基づく児童厚生施設「こどもの国」は約100ヘクタールという、横浜スタジアムが約37個分の広大な面積である。かつてこの場所は「東京陸軍兵器補給廠田奈部隊・同填薬所(通称・田奈弾薬庫跡)」という旧日本軍による要塞であった。終戦後もしばらく米軍により接収され、引き続き米軍による弾薬庫として使われていたが、1961年に返還される。

 その後この場所は1959年の皇太子殿下(現・天皇陛下)の御成婚による全国からのお祝い金などをもとにして再整備され、1965年5月5日にこどもの国として開園された。東急田園都市線とJR横浜線長津田駅から直通する横浜高速鉄道こどもの国線は、長津田から弾薬庫への引き込み線(トロッコ)の跡を利用したものであり、園内にいくつかあるトンネルもまた、引き込み線の名残である。また至るところに防空壕のような弾薬庫の跡が見受けられる。

 園内には、さらに「セントラル・ロッジ」という興味深い建築物があった。これは今年の東京都知事選、参議院選などで一躍時の人となりながら10月に急逝した建築家、黒川紀章が設計したものである。1965年の開園とほぼ同時に休憩所やアンデルセン記念館というものも設計した記録があるが、残念ながら現在はそれらを確認できず、現存しているのはこのセントラル・ロッジのみのようである。「メタボリズム」という建築理論を提唱した初期の頃の作品という意味では大変貴重な建築物であるが、現在は使用はしていないようである。奇抜なデザインではあるものの常に時代の最先端を追求したことで知られる黒川であったが、このセントラル・ロッジもまた40年以上前のものとは思えぬほど斬新なデザインである。

 黒川紀章は、実は横浜アリーナの建築設計の依頼を受けて設計を済ませたが、時の横浜市長であった細郷道一が黒川独特の奇抜なデザインに不満を持ち、流れてしまったと言われている。黒川もそれに対して怒ってしまい、その後横浜での仕事をほとんどしなかったとも言われ、事実横浜市内の黒川設計の建築物は数えるほどしかない。現在の横浜は、「横浜トリエンナーレ」を4年おきに開催するなど、官民挙げてアートに力を入れているだけに、あと数年生きていればもしかしたら面白いことをしていたかも知れない、と思うと惜しまれる死であった。ちなみに、みなとみらいにある横浜美術館は、黒川の師匠である丹下健三の設計である。

こどもの国は、激動の昭和遺産がたくさん詰まったスポットである。

記事:田中 健介


こどもの国 ホームページ
http://www.kodomonokuni.org/

・指田文夫の「さすらい日乗」 本当は黒川紀章だった
http://blog.goo.ne.jp/goo1120_1948/e/ad13e14ea4d1c899b24ef3242af15e03