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保土ヶ谷道 〜横浜の古道2〜


前回の横浜道に続き、今回は市内中心部にあったもうひとつの街道筋である保土ヶ谷道。
この保土ヶ谷道は、東海道保土ヶ谷宿から戸部村までをつなぐ道で、現在の西区戸部1丁目の五叉路あたりまで続いていた。

東海道保土ヶ谷宿で分岐した保土ヶ谷道は一旦南東方面に進んだ後に向きを東に変え、現在の藤棚商店街や願成寺前、くらやみ坂を通って戸部へと至る。
今回はこの保土ヶ谷道に今も残る歴史SPOTを幾つか見てみたい。


藤棚商店街
地名の由来はある一軒の茶屋に始まる。
明治初期、保土ヶ谷道と現在の藤棚浦舟通りが交差するあたりに鈴木屋という茶屋があり、この店の軒先一面に藤が繁茂していた。
この鈴木屋の藤から後に「藤棚」が横浜市電の停留所名に採用され、1928年(昭和3年)には町名となった。
この藤棚は戦災で消失してしまったが、1977年(昭和52年)地元の手により復元された。


願成寺
この名刹は新編武蔵風土稿によると1538年(天文7年)の建立と伝えられているが、寺伝には「天平年間(729〜749)に行基がこの地を通りかかった時、渇を覚え水を探していると渓谷より1匹の亀がはい出てきた。路傍を掘ると清水が湧き出てきたので、これを飲用し喉を癒した。これによりこの周辺を法亀山と名付け、草堂を創った。この草堂が願成寺の始まりである。」ともあるように古くからの歴史を持つ。
また、横浜開港直後の1859年(安政6年)に開設された掃部山の神奈川奉行所の宿舎としても使われていた。
境内墓地には、幕末の外国人襲撃事件としては生麦事件と並び有名な鎌倉事件で処刑された清水清次と間宮一の墓、港崎町の遊郭でフランス水兵を殺害した亀吉(小亀)の墓があるなど、開港場に近いこともあってか、様々な面で開港との関わりが大変深い。


くらやみ坂
このくらやみ坂の名前の由来には、この辺りが木々に覆われ薄暗かった、この坂の上からの景観が素晴しくここを通りかかった源頼朝でさえも馬(鞍)を止めてこの景色を眺めた、この坂があまりに急であったので荷物を運ぶ人々はここで休憩してから坂を登った、など諸説ある。
この坂の脇には、「戸部牢屋敷」と呼ばれる戸部監獄があった。
この監獄は神奈川奉行所同様、横浜開港直後の1859年(安政6年)に開設され1899年(明治32年)に根岸に新たな監獄が造られるまで使われていた。
しかしながらこの監獄は江戸時代以来の旧態依然とした施設で、また囚人の増加に伴いかなり劣悪な環境の監獄であったようである。
更に、ここには処刑場もあったので、開港後には日本人だけでなく外国人にとってもこのあたりのイメージは良くなかったとも伝えられる。(これも「くらやみ坂」の名称の由来の一つと言われている。)
ちなみに明治時代に始まった日本初のマッチ製造には、この戸部監獄の囚人300人が従事していたとのことである。


この他にも保土ヶ谷道と横浜道の間にある御所山には伝御所五郎丸墓がある。
御所五郎丸は日本三大仇討ちの一つで有名な曾我兄弟の仇討ちにおいて、曽我兄弟が父の仇の工藤祐経を討ち取れるよう、この兄弟を祐経の館に導き本懐を遂げさせたと言われている。


横浜市内中心部、臨海部では開港後の史跡・名所ばかりが目に付いてしまうが、上記したように港にほど近いこの保土ヶ谷道沿道にも開港前後を問わず様々な史跡・名所が残っている。
開港後ばかりでなく開港前の横浜を再発見するのも新鮮で面白いかもしれない。



横浜市西区ホームページ 西区歴史街道 保土ヶ谷
http://www.city.yokohama.jp/me/nishi/midokoro/rekishikaido/rekishikaido03.html